―ハレノチブタ―

豚座34渾身の備忘録。

映画『バケモノの子』感想

 ひと月ほど北海道を放浪していた。バイクで。すごいな無職はなんだって出来るぞ。可能性を感じる。

 そんなこんな世間から隔絶されている間に、あの注目作がロードショーされる運びになっていた。アニメーション監督細田守の最新作だ。

 映画は面白かった…………んだけど、何か一つ物足りない。今回は、その今一つをネタバレとか気にしないで考えてみる。

 

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人間界「渋谷」とバケモノ界「渋天街」は、交わることのない二つの世界。ある日、渋谷にいた少年が渋天街のバケモノ・熊徹に出会う。少年は強くなるために渋天街で熊徹の弟子となり、熊徹は少年を九太と命名。ある日、成長して渋谷へ戻った九太は、高校生の楓から新しい世界や価値観を吸収し、生きるべき世界を模索するように。そんな中、両世界を巻き込む事件が起こり……。

http://www.cinematoday.jp/movie/T0019739

 

父と子の物語?

 創作世界から父性が消えてしまったという話を、大学時代よくよく聞かされたのを覚えている。父性と言っても父親的な愛の姿ではなく、それは父と子の対立の物語だ。子供は親の背中を見て育つというが、いずれその背中は子によって乗り越えなければならないハードルだ。そのセオリーは神話の時代から脈々と受け継がれて、創作世界の一つのルールになっていた。最も有名な例がエディプスコンプレックスで知られるオイディプス王の物語で、日本でも志賀直哉の『和解』などいつだって男子の前には父親が立ちはだかり、子はそれを乗り越えんと苦悩する。

 創作界――とくにマンガやアニメ――においてはそんな父性どころか、そもそも父親が不在という物語がしばらく続いていた。細田守作品も例外でなく、『サマーウォーズ』『おおかみこどもの雨と雪』は意図しているのかしていないのかは別として、しっかりと”父親”が不在である。

 では今回はどうか。『バケモノの子』という映画。そこに父親はいるのか。

 問われれば、それはノーだ。やっぱり、あくまでも母性的な作品作りのように思う。そのあり方を否定するわけではない。けれども、この映画の良く言えばさっぱりとしていて、悪く言えば薄っぺらいところは、実はそういう父親不在が原因にあるように思う。

 ただまあ、それがおそらく今の現実を如実に表しているのではないだろうかとも思う。対決すべきは父親ではなく、結局自分自身なのだ。父がいなくとも子は育つ。*1

 けれども、子供は自分と真っ向から向き合い、時に論理に依らない感情論で否定してくれる存在を欲する。それが熊徹の役割なのだ。あくまでも親代わり。その役割は、言ってしまえば父親でなくても出来る。たまたま父親が最も身近なだけで、それは時に教師であり師匠であり先輩である。それが今回はバケモノの師匠熊徹だったのだ。

 熊徹は別に父親たらんとはしない。師匠らしくあるということもない。ただ自分を変えてくれた九太を守ろうとする。それだけだ。それはある種父性愛ではなく、母性的な愛に通ずる。*2

 

ニンゲンかバケモノか?

 今作品はあまりにもストレートというかあけすけというか王道というか、とにかく悩むところがない。伏線は伏線ですという顔をしているし、「まさかそんな展開が」という驚きはほとんどない。

 そして一番あっけないのが、自分を「バケモノの子」呼ばわりするくせにその後は只の人間として暮らしていくという道を選ぶところだ。*3

 ただこれも意外でもなんでもなく、九太が人間世界へ帰還して出会ったヒロインに名乗るときに、ニンゲンとしての名前「蓮」を使ったところからも明らかなのだ。そこで「九太」と即答しなかった時点で、彼の将来はもう決まっていた。一瞬の逡巡のみ、というのも哀しい点だ。その後もヒロインに対して、九太と名乗ることは一度もない。主人公の中でしっかりと線引が出来ているのだ。*4

 ただまあ個人的に、ここが一番のポイントになって欲しかったと思う。どう生きるのかという葛藤。ニンゲンとして生きるのか、バケモノとして生きるのかという苦悩。ここをもっと描写して欲しかった。*5

 その「どう生きていくべきか」をもっと深く考えていくストーリーだったなら、きっとそこに”父親としての熊徹”が登場していただろうと思う。悩める子の前に立ちはだかる父親。その対決の先に、子供は答えを見つけるのだ。*6

 結局、熊徹の言うとおりになる。誰かに答えを求めるな。「意味なんてものは自分で探すんだよ」ということである。

 

まとめ 

 ここに熊徹と九太の対決があったらどうなっていたかと考えずにはいられない。もちろん話は全く別物になっていただろう。*7

 主人公の鏡的存在である一郎彦との対決によって自己と向き合うストーリーも悪くない。悪くないだろうけど…………細田守作品が合わない人は、その爽やかすぎてさっぱりとしすぎているところが合わないのだろうかとも思う。結局彼の作品のどこにも本当の悪人ってやつがいない。冒険活劇には必ずいる理不尽で強大な敵もいない。「細田はまた褒められようとしているな」なんてのは言い過ぎだろうけど、とても優等生だなとは思う。やっぱ綺麗すぎるんだろう。*8

 途中出てきたヒロインも、あれ女の子である必要ないよね。ただ見栄えの問題だけじゃんって感じが盛々した。*9

 もっと泥臭く、もっと足掻いて、というお話を求めるのは間違っているだろうか。でも、そんなワクワクドキドキの英雄譚、冒険活劇が出来るポテンシャルを持った作品だったと思う。

 

 結局明確に批判しきれない豚である。「きらいじゃないんだけど、うーんなんかちょっと足りないよねえ」なんていう微妙なことしか言えないのだ。ゴミカスである。だったら最初からお口をミッフィーにしてなと。

 あんまり批判的な意見もどうかと思うので好きなシーンのことも話しておこう。一番好きなシーンは卵かけご飯の件である。最初は生臭くて食えない突っぱねるのだが、最終的に気持ち悪くなりながら気合でかっ食らうのだ。それを見て嬉しそうに笑う熊徹が印象的であった。記紀の時代から、異界の住人になるためにはその世界の食べ物を口にすることがひとつの儀礼だった。*10あの熊徹の差し出した卵かけごはんを食べたことで、初めて九太は熊徹の弟子になったのだ。

 その後も、一緒に食卓を囲う場面が何度も挿入される。あの食卓が、二人にとっての家庭の象徴なのだろう。だから、二人の喧嘩はいつも食卓で始まるのだ。

 そう考えると引っかかるのはやっぱりタイトルなのかな。あとはメディアの宣伝の仕方。全く新しい親子の物語とか煽っていたような気がするし。”親子”と銘打つほどじゃないでしょ。さっき「食卓が二人の家庭の象徴」なんて言ったものの、そこにあるのは師弟の関係だし、よしんば兄弟くらいのものだ。父と子って感じじゃない。

 とは言っても、最後九太は「いろんな人に育ててもらった」と言う。自分を取り巻く大人を「ダイキライ」と言っていた子供が、大人へと成長した瞬間である。

 この作品は主人公がバケモノになっていく話ではない。バケモノとニンゲンの親子関係の話でもない。九太が、子供の頃に喪失した大事なものをバケモノたちによって埋めてもらい、しゃんとしたニンゲンになるお話なのだ。いろんな人と出会って、最後に自分の意味を自分で見つけていくお話だ。

 

 その点では、彼は十分バケモノの子、熊徹の子だと言える。

*1:母の愛は必要だって『NARUTO』も言っているぞ。子供と一緒にいてあげるっていうのが母の役割なのだ。あのチコ(ケセランパセラン)のように。

*2:最後熊徹は”九太の胸の中の刀”になる。刀というと如何にも男性的だが、”胸の中の刀”っていうとなんか女性的な感じがする。懐剣とかって女性のものだしねえ。

*3:人間が持つ”闇”が、「人間はバケモノ以上にバケモノ的である」というウルトラ解釈もできないことはない気がする。わお、ウルトラ。

*4:その点が「一郎彦」との最大の違いになるわけだ。

*5:結局、ラストの方は人間の中に潜む闇との対決で、バケモノはどっかに行ってしまった。残念ポイントである。

*6:劇中の喧嘩のさらりとしていること梅酒の如し。

*7:青春と感動にステ極振りにはならないだろうな。青春とか感動とか家族愛とかってのを書かないと暗殺でもされちゃうの? って思うくらいステ極振りだよな。

*8:その点で僕は細田守監督作品の中で『おおかみこどもの雨と雪』が一等好きである。これは全く綺麗なだけの作品じゃない。とても泥臭いし理不尽だ。その中でも賢明に生きて、自分の道を切り開いているということを感じる。家族だけじゃなくて、自然と人間の関係っていうのが描かれているからなのかも。

*9:バケモノの子なんだから、九太くんには目をギンギラギンに輝かせてレイプ未遂くらいまで行って欲しかったって思うわけじゃん。

*10:まあ、そんな難しく考えなくとも、「同じ釜の飯を食う」理論である。