―ハレノチブタ―

豚座34渾身の備忘録。

Singin' in the Rain.~雨に唄えば~

今週のお題「雨の日が楽しくなる方法」トピック「雨の日が楽しくなる方法」について

 

雨と言葉

 風邪引いたりして体調を崩している間に、いつのまにか列島の南側はお湿りのようで、間もなく――というか現在進行形で――梅雨前線は北上し、一年で最も陰鬱な季節が始まるだろう。

 創作の世界でも雨というのは憂鬱の象徴で、登場人物の心情は空模様に反映される。ただ、僕たちはこの世に止まない雨はなく、晴れない空はないということを知っている。だからこそ、雨を見て溜息を付くと同時に、あの抜けるような青を夢見るのだ。するとどうだか。自然足取りは軽いものになる。それはまるでタップダンスのようではないだろうか。

 よく聞けば、雨というのは音の宝庫だ。様々な音を生み出す。「ざーざー」や「しとしと」といったオノマトペでよくよく表される。「ざーざー」は賑やかで、「しとしと」はしんみりで、それでも「ぴっちゃん」なんてついたら、ちょっと踊りだしたくなるような陽気さを腹の底に隠していそうだ。

 オノマトペだけではない。日本には雨を表現する言葉がたくさんある。言葉の豊かさは、そのまま自然への親しみの深さを表す。雨という言葉をざっと上げれば、時雨、小夜時雨、五月雨、梅雨、菜種梅雨、夕立、氷雨、春雨、天気雨、秋雨、穀雨……エトセトラエトセトラ。

 日本は雨が多いから、その気候が国民性に影響しているのだ、なんて本を以前読んだ。確か和辻哲郎*1だったと思う。じゃあ、日本人は陰鬱な奴が多いのか? いやいや、止まない雨はないのだ。だからこそ、底抜けの明るさに思いを馳せる。そのある種楽天的な気質に近いものが、映画『雨に唄えば』の底流にあると思う。

 

雨に唄えば

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 僕は未だにこれ以上に陽気な、底抜けに明るい雨を見たことがない。*2雨に唄えば』は全編を通して”底抜け感”に溢れているが、この主題歌を歌い踊るシーンは「特に」と言っていいだろう。ジーン・ケリー演じるドンの浮かれポンチっぷりが4分半以上も続く。カメラワークも素晴らしく、俯瞰で舞台を広く見せジーン・ケリーの自由なダンスを流れるような流麗さでカメラに収めている。

 特に見もの、というか聞きものなのが彼のタップダンスだ。軽快な足音に雨音が混ざり、じゃぷじゃぷじゃばじゃばと水たまりをかき乱す。なんと小気味よいリズムだろうか。うっとおしいはずの雨も、彼にかかってはハッピーな日を賑やかしてくれるバックバンドに早変わりする。もちろんバンドのメインは彼なのだが。

 これは前述したが、よくよく空模様には登場人物の心情が反映される。最近見たアニメで毎度雨の降っているシーンがあって、「なんだ季節は梅雨か?」と思って辟易したことがある。チームメイトとの不和、降りしきる雨、波乱の予感、それでも最後は雨は上がり、チームは一層団結してハッピーエンド。心情と背景の関係で言えば鉄板なんだけれど、それを毎度やられるとさすがにゲンナリする。

 一方、『雨に唄えば』での雨の使い方は少し違う。確かにこの後の展開を考えれば少し不穏な空気はあるのだが、この雨の効果としてはあくまでも先ほど述べた通りだ。こんな楽しい雨なら降ってほしい。そう観客に思わせるエンターテイメントだ。この作品は見せ方だけでなく、視聴者との距離感もミュージカルのようである。すぐ目の前で役者が生きているような、そんな印象を視聴者に与える。不朽の名作と言われる理由は、一度見れば語るまでもない。

 

晴思雨唄

 日本には晴耕雨読という言葉があるが、これから梅雨本番を控える今、晴思雨唄だろうか。同じ憂鬱色の空ならば、踊らな損損と言ったところだろう。楽天的に、底抜けの青空を期待して、水たまりをバシャバシャ。晴を思って雨に唄えば、外に出るのも少しは楽しくなる。

 

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*1:具体的に言うと、和辻の言っていることは極東や東南アジア全般の話で、モンスーン型の国民性と呼んでいた。他にも草原型、砂漠型、森林型などがあった。その土地の気候がそこに住む人々の生活様式を決め、それが慣習となり、宗教となる。そうして国民性が生まれるという話だったと思う。

*2:このシーンの雨には牛乳が混ぜてあったらしい。雨を際出せるための演出だそうだ。雨の演出、というと黒澤明を思い出す。黒澤明は雨に墨汁を混ぜたらしい。カラーと白黒。図らずも白黒の対比である。