―ハレノチブタ―

豚座34渾身の備忘録。

映画『チャッピー』感想

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チャッピーを観てきた。『第9地区』の監督のオリジナルSF作品で大いに楽しみだった。しかし、公開前に映倫の審査の関係ですったもんだがあったらしいのを耳にして、少し不安を抱きながらも劇場へと足を運んだ。

 たいていこの手の規制が入ると、メリケン映画は去勢されたワンちゃんの如くの変貌を遂げたりして、良いイメージは皆無だ。しかし、それがほとんど全くと言っていいほど気にならず、大いに楽しむことが出来た。

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 あらすじ(ウィキより抜粋)
 未来。ヨハネスブルグの高い犯罪率を減らすため、南アフリカ政府は、兵器メーカーTetravaalから、人工知能を半分取り入れた最先端の攻撃ロボットを購入した。
 同社のヨハネスブルグ工場では、ロボットの設計者、デオン·ウィルソンは、感情を感じたり、意見を持ったりすることができるという人間の知性を模倣した新しい人工知能ソフトウェアを作った。しかし、彼の上司、ミシェルブラッドリーは、そのロボットを試作することを許可しなかった。 デオンは、どうしてもあきらめられず、廃棄される寸前だったロボットとロボットのソフトウエアをアップデートするために必要なドライバーとともに家へ持ち帰ろうとした。だが、帰宅途中、強盗を手伝わせるためプログラムされたロボットを欲しがっている、ニンジャ、ヨランディ、アメリカ(あだ名)の暴力団グループに、デオンは誘拐されてしまう。銃で脅され、デオンは、壊れたロボットに新しいソフトウエアをインストールする。
 ロボットの知能はまだ何も情報を持っておらず、見た目は攻撃ロボット、でも中身は純真無垢でまるで子供のようである。デオンは、ロボット「チャッピー」を調教するために、職場に戻り、また、3人のもとへ戻ってくる。その折、アップデートのためのドライバーが持ち去られたことに気付いた同僚のヴィンセントは、デオンの後をつけ、チャッピーの存在を知る。

 

 まず、とにかくテンポが良い。グルーブ感溢れるディスコミュージック*1で、スラング調の会話が全体のノリを決めている。アクションもキビキビしていて、ユーモアとのメリハリもある。120分の中で”たるい部分”は皆無で、カメラワーク、カット割り、人物の会話や音楽も大いにそれを意識しているだろうと感じられた。

 なにより役者が揃っている。俳優に明るくない豚にもわかる面子*2で、全員の演技が光り、それもあって個々のキャラが非常に立っていた。

 一方で、古くから続く「問題」をしっかりと描いている。それは人間の定義であり、生命の定義であり、魂の問題である。本編では「意識.dat」と名付けられているものだ。 アンドロイド物において、必ずロボットは人間の生命倫理の諸問題を映し出す鏡として扱われる。アシモフやディックがそうしてきたようにだ。それは何もアンドロイドに限らず、全ての物語に共通することだが。人間の「私とはなにか?」という永遠のテーマである。その辺りが、かなりショッキングに描かれていたように思う。

(近未来におけるロボットや人工知能の孕む危険性よりは、こちらの方を強く感じたのでそれについて書きなぐっていきたい。)

 

 特に感じ入ったのが、チャッピーの表情だ。表情と言っても、小さな液晶画面に表れているものではなく、その立ち居振る舞いや言葉に表れている感情のことだ。序盤、”産まれたてのチャッピー”はアンドロイドという見た目の不自然さがありながら、まさしく”人間の赤ん坊”だった。それは玩具一つを手に取る動作、安心して自分を任せられる”親”を”本能的に”見極める姿、立ち上がり歩き始める過程*3、ミルクをこぼして驚くところやヒーローアニメのモノマネをして喜ぶ”表情”からひしひしと伝わってきた。よく動く耳(アンテナ)などの頭部パーツも、可愛らしさを感じさせる。そういう感情の所作を丁寧に描いているからこそ、視聴者は、確かにチャッピーの成長の過程を感じることができるのだと思う。

 また、ヨランディという「ママ」との交流も、この豊かな表情に繋がっているだろう。彼女の母性と、対照的なニンジャの父性がチャッピーという”成長段階の子ども”を、よりリアルな存在にしているのだ。人間臭すぎる彼らから生き方を学ぶところも、その一役を買っていると言っていいいだろう。母の愛情を受け、父に怯えながら家族の絆を求める姿は、正に”人間臭すぎる”。

 例えば、ここで思い出すのが『イヴの時間』だ。いわゆるこのヒューマノイドは、その”人間らしさ”の一つが顔に表れる表情に依るところが大きかった。 『イヴの時間』では、泣いたり笑ったり怒ったり、そう「まるで人間のような」ロボットが人間らしく振る舞う姿が描かれた。ただまあ、この世界で描かれるヒューマノイドは、リング*4という特殊性以外で、一見しただけでは人間なのかロボットなのか見抜けない存在なのだが。他にも、『アイ、ロボット』でも、顔に表れる表情が丁寧に描かれていた。こちらは動作がまるっきりロボットで、そのくせ人間らしい表情をするのだ。*5アンドロイドは電気羊の夢を見るか』は最も顕著な例で、表情に収まらず肉体性にまで「人間らしさ」が及ぶ。この作品に出てくるのは、肌を重ねてもそれが人間なのかわからないほどのロボットだ。だからこそ、主人公の疑念、「もしかして自分もロボットなのでは?」につながっていくのだが。

 これらはどれも、ロボットたちの「人間らしさ」が描かれるからこそ、「人間とはなにか?」「私とはなにか?」という問いが際立っていく。その中でもチャッピーは、人間と同等の精神を持ちながら相反する自身の体――本編では『黒い羊』が引き合いに出される。電気羊の件もあるし、この引用は相当に意図的だろう――に苦しみ、葛藤し成長する。生を希求する姿の痛ましさが、スクリーンからビリビリと伝わってくる。そこにあるのはまさしく人間の成長の物語で、これはアンドロイドの登場するSF作品でありながら、社会から爪弾きにされる不適合者たちのヒューマンストーリーとしても成立しているのだ。

 

 創造主の命の危機に、チャッピーは彼の「意識」をロボットに転送することを考えつく。*6果してそれは無事成功して、”デオンの意識はロボットに移った”。それはデータ化された神経信号に過ぎないはずなのだが、チャッピーという存在のおかげで、「魂」の存在を視聴者に錯覚させる。しかし、この発想は一見ロマンチックでも、完全にロボット的で科学者的なものだ。結果をあっさりと受け入れるデオンの姿は普通ではない。「そこに魂はあるのか?」と考えた時、ロボット側ではない人間は、この結果を否定するだろう。ヨランディは言った。「人は死んで、次の場所に行く」と。つまり、人間は生のみに依らず、その死があって成立する存在なのだ。その点では、本編はしっかりとチャッピーの生、そして死を描いている。生に関しては言わずもがな。そして、死も高尚なものとしてでなく、リアルの所に落とし込まれていて視聴者を納得させる。暴力によって生命を脅かされる経験。バッテリーという寿命。闘犬に見る生きるか死ぬかの問題。最愛のママの死。しかし、結局チャッピーの結論は死の超越、肉体の超越だった。そして、同じものを家族に対しても求めたのだった。

 ラスト。ヨランディの意識をロボットへインストールするところが描写される。その前のカットでは、ニンジャがヨランディの写真や遺品を燃やすシーンがある。その中で、ニンジャはヨランディの意識データが入ったUSBを発見し、そしてそれを燃やさなかった。しかし、そこにあるのは死の超越などという考えではないはずだ。それは人間故の純粋な過ちであると思う。彼は暴力的なストリートギャングとして描かれているが、確かに人間存在で*7明らかにデオンやチャッピーとは違う。チャッピーはヨランディの亡骸に語りかける。「次の場所に行くのではなく、新しい体に行くのだ」と。しかし、きっと彼女はその考えを、新しい自分の存在を受け入れられないだろう。含みを持たせつつ、最後アンドロイドに”意識”が移ったヨランディが目を見開くところで、映画は終わる。これまでの家族として彼らを見て、そしてその中にある決定的な違いが描かれているからこそ、どうしても彼女が喜ぶ姿は想像できない。

 だからこそ、改めてその語られなかった空白が問うのだ。 「人間とはなにか?」「私とはなにか?」そして 「そこに魂はあるのか?」と。

 

 とにかく大満足の映画で、アクション物とかロボット物とかを観ると心臓発作を起こしちゃうっていう人以外には是非進めたい作品である。最後の最後まで、フィクションであるのに生々しい物語が活写される名作だ。映像の迫力、音、そして細かなチャッピーの”表情に”注目するためにも、是非とも劇場に足を運ぶことをオススメしたい。

*1:名称があってるかわからん。単純にレゲェとかHIPHOPでいいのかも。

*2:スラムドッグ$ミリオネアの主人公、珍しく胸毛とギャランドゥを見せないヒュー・ジャックマン、あとシガニー・ウィーバーなど。

*3:チンピラ歩きを覚えて嬉しそうに実践するところは微笑ましかった。

*4:本編中のヒューマノイドの頭上に表示される識別標。法律で定められているという設定で、このリングが物語のきっかけになっていく。

*5:そういえば、関係ないけど 『イヴの時間』 はサミーで 『アイ、ロボット』 はサニーだ。

*6:かねてから、自分の「意識.dat」を別のボディに移すつもりだった。

*7:欲望の肯定と実践、仲間への愛情、十字を切る仕草、ヨランディとチャッピーの会話に微笑む回想シーン。