―ハレノチブタ―

豚座34渾身の備忘録。

私の頭の中のリビングルーム

今週のお題「一番古い記憶」

たまには映画の感想以外のことも書いてみる。

 

空間と記憶

 

一番古い記憶と聞かれると、思い出されるのは部屋のレイアウトだ。写真で確認する限り、おそらく1、2歳頃の居間の風景だと思う。人とか出来事とかじゃないっていうのは面白いと思う。

ただ、原初の記憶が空間そのものであるというのは、別段珍しいものでもないように思う。3歳くらいまでの幼児には、胎児の記憶が残っているという話を聞いたことがある。それは音の記憶だったり、胎内空間の記憶だったりするようだ。

 

「狭いところにいたと思ったら、明るい光が見えてきた」

そんな不思議なことを、言葉を要約覚えた頃の子供はなんとなく思い出せるらしい。

 

空間と記憶は密接な関わりがあるということはよく知られている。

 

たとえば、なにか探しものがある。それは隣の部屋においてあったはずだ。よいしょと腰を上げて、隣の部屋へと移動する。さて、どこにあったかなと探索しようとする。すると、はて、私は何を探そうとしていたのか。急に記憶喪失に陥るわけだ。

誰しも経験があるのではないかと思う。僕も非常に多い。

 

どうやら、脳は記憶を空間と関連付けて保存しているらしい。別の部屋に移動すると、脳は古い方を押しやって新しいタスクを実行する。あれだけ印象深かったものから、ぷつりとアクセスが途切れてしまう。こうなると、いくら考えてみても思い出せない。

 

あれ、なんだっけと闇雲に机や本棚を物色してみるが思い出せない。ああ、自分も年を取ったなと嘆いてみて、また元の部屋に戻って椅子に腰掛ける。すると、どうしたことか先ほどはいくら考えても思い出せなかったものが、はっきりと頭に浮かぶのだ。そして僕たちは、今度こそは忘れまいと、ぶつぶつと目的の物の名前を呟きながら、また部屋へと移動する。

 

それで、また自分自身の最古の記憶に戻るのだが、その記憶のせいで時たま違和感を覚えることがある。いつもの居間なのに、あれなんかおかしいぞ。ちょっとした居心地の悪さを感じる。テレビ、ここにあるのが当たり前なのに、違和感……

最もひどいのはお風呂だ。僕は実家のお風呂に長い時間浸かるということが出来ない。随分前にリフォームしたはずなのだが、それでも妙なひっかかりを覚えることがある。他人の家にいる感じ、というわけでもない。そこまで強烈な違和感なら、記憶の病気だろうと思う。

なんかちょっと不思議だな、くらいの感覚である。

 

記憶のお話

 

人間の脳味噌は皆が考えるのより優秀――もしかしたら皆が過信しているのより優秀――に創られているらしい。

完全記憶能力、という超能力めいた能力があるらしいが、潜在的には誰もが保有しているものらしい。そもそも記憶のメカニズムは3つのプロセス*1によって成り立っているのだが、

 

1記銘

2保持

3想起(再認)

 

簡単にいえば、インプット、キープ、アウトプットである。人間はこの記銘、保持までは完璧にこなしているという。しかし、アウトプットの段階で個人差が生じる。忘れた、というのは単に思い出せないだけなのである。忘れたという現象は、優先順位付けの後にある、作業領域確保のための一時的な忘却に過ぎないらしい。

すべてのことをいつでもどこでも想起できるというのは、パソコンで言うなら一時記憶メモリに、情報を常駐させているということにほかならない。それは多大な負担を要するため、人間の脳は適度にメモリを整理する。しかし、必要なときに想起できないようでは意味がないから、タグ付けしておくことによって探しやすくしているのである。

そのタグが『空間』であったり、『匂い』であったり『音声』であったりするわけである。

この中でも『匂い』が最も強力なタグであるらしい。

 匂いによって記憶が想起されることを『ブルースト現象』*2と呼ぶ。

僕は季節の匂いをかぐと、昔のことを思い出す。夏の匂いは夏の思い出が、冬の匂いは冬の思い出が、雨の匂いもまた然り。季節の到来も、目に映る情報より匂いによった情報を信頼する。それはきっと夏という言葉(記憶)とその匂いが強力に関連づいているからだと思う。

そういえば、空間も――それがパーソナルであればあるほど――”匂い”から離れることは出来ない。他人の家におじゃますると、僕は”目につくよりも鼻につく”ことが多い。

たとえば、しばらく訪ねなかった旧友の家。久方ぶりに訪れる。家具の配置が変わっているかすらわからないのに、ここは友人の家だと確信できる。そして、フラッシュバック。この家で遊んだあの頃を思い出す。ああ、そこにテレビがあったっけ。やっていたゲームは64のソフトだなんて。

 

空間と匂い

 

思い出すのは『クレヨンしんちゃんオトナ帝国の逆襲』である。昭和の懐かしい匂いによって、大人たちが子供へと回帰していく話。あの匂いが精製されたのは、昭和という時代を区切りとったような箱庭だ。

僕らの頭の中にはたくさんの部屋がある。

区切られた立方体。

楽しく悲しく嬉しく辛い、脳内にだけ保持された箱庭。

僕の一番古い記憶のあの居間は、もう頭の中にしか存在しない。いや、そもそも元から存在しないのかもしれない。完全記憶能力とは行かない。整理、想起のためのタグ付けが曲者なのだ。関連付けで放り込まれたフォルダで、色移りが起きてしまう。結果できあがるのは、想像の産物と言っても過言ではない代物になる。

それでも、懐かしいと感じる。そんな懐かしい匂いで、あのリビングルームは満ちているような気がする。

それなら、それだけでいい。それでいいのである。

 

*1:加えるならここに忘却が入る。

*2:

この現象はもともとプルーストの代表作「失われた時を求めて」の文中において、主人公がマドレーヌを紅茶に浸し、その香りをきっかけとして幼年時代を思い出す、という描写を元にしているが、かつて文豪が描いた謎の現象は現在、徐々に科学的に解明されつつあるのだ。

           X51.ORG : 匂いが記憶を呼び覚ます - プルースト効果とは何か

FROM 20 CENTURY MOVIES Nomake SEKAINO OWARI

この夏もそこそこ映画を観た

マッドマックスターミネーター進撃の巨人、ジュラシックワールドなどなど。

進撃の巨人は置いておくにして、その他の作品に共通するものそれは、20世紀という時代だろう。

例えば、今年はバック・トゥ・ザ・フューチャー30周年。加えて、ドクとマーティが飛んだ未来という記念すべき年だが、あの頃の人たちに、マッドマックスの続編が社会現象になってさ…とか、ターミネーターの続編でシュワちゃんが大暴れでさ……とか言ったら、「ハア?」と呆れられそうである。*1おまけにミッション:インポッシブルまでやってる。*2トップガンやってたはずのトム・クルーズは、ノースタントで飛行機にぶら下がっていると来た。

 

こんな未来、誰が思い描いただろうか。

ネガティブに考えれば、もうネタが尽きたという証である。しかし、ポジティブに考えれば、技術の発展により映像化不可能だったお話を描くことができるようになったとも言える。

まあ、どんな理由であれ、面白い作品が観られるなら構わないんだけど。

 

 

マッドマックス怒りのデスロード

V8を讃えよ。この映画字幕がいらねえなって心底思った。突っ込みどころ満載なはずなのに、テンションMAXスピーカーから響くサウンド、ヒャッハーな画面で頭の中ドーパミンがドパドパでもう何も考えられないぜ!! 最高にクレイジーでマッドだぜ!! ていうかこの作品を冷静に分析している奴がいるとしたら、そんな奴こそクレイジーって感じだ。

 

ふぅ……

とまあ、そういう突っ走ったところが大いに受けたんだろう。加えて言うなら、この3DCG、VFX全盛の時代に、なるだけ実写に拘った画面作りというのが、この作品を確かなものとしていると思う。硝煙と砂埃が劇場に漂ってくるようである。

とにかくスピード感とテンポが素晴らしい。それを煽る音楽と効果音もグッド。何回も見に行きたくなる気持ちもわかるってもんだ。

そういえば、どうでもいいんだけどメル・ギブソンって最近何してんだ。

 

ターミネーター:新起動/ジェニシス

これはすごい。何が凄いかというと、まず3と4がなかったことにされてる。ファンの間では、まあほとんどないようなもんだったわけだけど、豪快にも公式がそれをやっている。それもそのはず、監督がターミネーターの大ファンらしい。そらそうなる。

まだまだすごいところがある。何が凄いかって言うと、めっちゃ面白いのにストーリーがガバガバなところだ。ほんとめっちゃ面白いのに。

 

サラ「よっしゃスカイネットぶっ壊しに行こう」

カイル「だめだ今すぐ未来に飛ばなきゃ」

サラ「は?」

カイル「夢で見た」

サラ「夢」

カイル「別の世界線の俺がめっちゃ呼びかけてくる」

サラ「別の世界線」

 

マジかよの連続である。

でも面白いんだこの作品。心底ターミネーターが好きなオッサンが作った最強二次創作って感じが特に。危うくB級待ったなしなのを、その愛のパワーで何とかしている。

あとさ、絶対この監督って2が好きでしょ。強大な敵が、今度は味方として!! という2の話がさ! 旧型が新型に大して足掻くって話がさ!! わかる。僕も好きだもん。

特に素晴らしいのはラストシーン間際のシュワちゃんアップデート事件*3である。最高にクールでエキサイティング。思わず手を叩いた。

 

そういえば、どうでもいいんだけど、映画を見ていて『マイノリティ・リポート』を思い出した。たぶん湖のシーンとか、記憶のフラッシュバックとかってのがちょっとダブったんだろうと思う。

 

 

進撃の巨人

ATTACK OF TITAN

俺は実写版ガッチャマンと実写版ドラゴンボールを金払って劇場で見た最強マンだから言わせてもらうけど、もうほんとエンド・オブ・ワールド~世界の終わり~って感じだしセカイは残酷だよ。

鬼の叩かれ方をしていて、その場外乱闘具合のほうがもしかしたら面白いんじゃねーのって錯覚してしまうけど、そんなに叩くことはないじゃんって思う。

 

――――などと今になっては言っているけど、実際映画を観た直後の豚座氏のツイットがこれです。

 

結局、本当に怖いのは人間なんやって話に持っていく腹づもりなんだろうけど、その怖さをいっちゃん教えてくれたのは子供の父親になってってめっちゃおっぱい揉ませてきた人妻だと思う 人間怖いね

posted at 13:18:53

でも、あれだけテンポとスピード感が命の作品の中で、頭悪いくらい止まったような画と酔っ払いの千鳥足のような脚本は本当にゴミだと思う あと説明不足を物語の奥深さとかスピード感と勘違いしてるのでは?って思わせる作り方もダメでしょって思う

posted at 13:34:35

 

めっちゃ辛辣だ。プロでもないのにいっぱしに批評してやがる。

まあ、人間悪いところほど目につきやすいし、世間が糞だと言ってるものならなんの気兼ねもなし「そうだぜ糞だぜ」って言えるから、これだけ炎上しているのだろう。所詮僕らはみんな上から目線で誰彼構わず叩きたいマンだからだ。

で、残念ポイントは星の数ほどあったように思うんだけど、特に残念だったのが立体機動のVFXのしょぼさだ。アニメ版のカメラ動かしまくりに流パンに止めのこれでもかという演出による立体機動を観た後だからこそ、そのしょぼさが際立つ。*4立体機動なんだから、もちろん機動力こそが売りなのに、その画はまるで止まっているよう。全然かっこよくない。世界の終わりって感じだ。

しかし、悪いところばっかではないと思う。正直全体的にはガッチャマンよりも10倍くらい面白かったし、ドラゴンボールとは甲乙つけがたいくらいだ。映画館であんなに笑ったのは正直ドラゴンボール以来だと思う。うん、めっちゃ笑った。

特に面白かったのは―――こちらも豚座ツイットからぐいっと持ってくるけど、

 

個人的に頑なに立体軌道を使おうとしないバトルアックスデブがお気に入り 巨人ぶん投げたときはヨコヅナ!!っていう謎の感動を与えてくれたし でもあれは後編とかでぽっくり死ぬキャラだよなって思う 残念

posted at 13:16:48

立体軌道のCGは予告編通りゴミだったけど、めっちゃ美味しいそうに人間バリバリ食べる巨人たちはほっこりさせてくれる

posted at 13:20:49

士気と練度がゴミのようだった新兵たちはあれでいいと思う 消耗戦の末のどうしようもない感じが現れている 態度いけすかねえって理由で暴力に訴えるジャン君も、敵地で突然セックスするカップルも、最後の希望の爆薬をしょうもない神風に使うバカ女も、アリだと思う

posted at 13:29:32

怪獣パニック映画のような画と、巨人エレンの戦闘シーンの特撮のようなカメラワークは流石だと思った 特に巨人エレンのとこはウルトラマンのコマ割りだ!って感激した

posted at 13:40:10

 

セリフ回しのあたりは論外だけど、ストーリーも構成もそこまで悪いとは感じない。その辺りはちゃんと目が光っている。ただまあ、本当に最低限だけど。

 

やっぱり漫画の実写化は難しい。ファンを納得させるのは大変だし、味方につけるのはもっと大変だ。それでも、邦画の中じゃそこそこ潤沢な予算で作っているわけだし、そのお金は原作あってのものだし、その原作を買い支えているファンあってのものだし。いくら攻撃的に批判されているからって、逆ギレしちゃいかんと思うよ。

オマケに原作レイプっていうかキャラクターも世界観も何もかもレイプされている状況だ。原作ファンをあまりにも過激に挑発している。*5そりゃオタクたちも多少過激な発言はするだろう。悲しいけど仕方のないことだ。

原作云々を抜きにしたって擁護できない脚本でしょとは思いましたね にもかかわらず台詞回しはオタクアニメ臭すぎるし、レイプするならするで調教までしっかりこなせよってなる

posted at 12:44:47

まあ、そんなとことんできたら苦労しないんだろうけど。

後編にも期待である。是非エンド・オブ・ワールドってやつを見せて欲しい。ところで、これも非常にどうでもいいんだけど、世界の終わりってそれはつまり人類の敗北なのでは? たぶん劇場で最後の予告まできっかり観た人間誰しもが考えたと思うけど。

 

 

ジュラシック・ワールド

世界一金をかけた午後ロー。びっくり怪獣大決戦って感じだ。

まあ、そんなのどうでもいい。一番の見所はラプトルちゃんである。友情愛情僕らの事情ブルーチャーリーデルタエコー ジュラシック・ワールド!! 俺もバイクで並走してぇ!! 四姉妹とキャッキャウフフしてぇ!!

詳しくは劇場で確かめて欲しい。

やっぱり金をかけた午後ローだよなって感じると思う。そういう要素*6がふんだんに盛り込まれているもの。

 

公開に合わせて、地上波でジュラシック・パークをやっていたので、4億8000年ぶりの視聴と相成ったが、やっぱり一作目ってレジェンドだ。ティラちゃんもラプトルも怖い。ドキドキする。ジュラシック・ワールドには、そういうドキドキ感がちょっとなかった。随所にジュラシック・パークをちらつかせているところとか、オマージュというか古参ファンへのサービスのつもりなんだろうけど、どうしてもかつての威光に縋っているように見えて、なんか寂しかった。

でもそれも仕方ないか。作中でも何度か出てきたが、「客はより恐ろしく、より強力な恐竜を求めている」*7のだから。

 

 

 

なんだかんだいって

 

充実の夏映画だったのではないだろうか。個人的にはずいぶん楽しめたように思う。あとは今週末にテッドの続編が控えているし、時間とお金に余裕があればミッション・インポッシブルとBORUTOも観ておきたい。無職だから時間には余裕あるんだけどお金が……どうしても有名ドコロだから来年辺りに地上波でやってくれるでしょっていう甘えが捨てきれない。カットの嵐雨霰な映画で良いのかと問われれば、ぐうとも言えないのだけど。

 

 今回はまとめてどっちゃりと感想を書き殴ってみた。

たぶん次は進撃の巨人、驚愕の後編について書き殴るんじゃないかと思う。

 

 

*1:ジュラシックパークの話は残念ながら通じない。原作小説は1990年刊行だし、映画に至っては1993年だ。

*2:1996年公開

*3:溶鉱炉オマージュ(オマージュって言っていいのか)からの再起不能かとおもいきや、T1000液体金属に浸かってアップデート。設定どうなってんだとか言ってる場合じゃない。アイル・ビー・バックだコノヤロー!! ファンタスティック!!!

*4:レベルとしては、さすが白組、ガッチャマンのほうが良かった。ていうかガッチャマンが2013年公開だってことに戦慄している。もう5年は前の作品だと思ってた。記憶の彼方に飛ばしまくりである。

*5:舞台設定が日本ベースだからリヴァイとがシキシマになる←そう言われちゃしょうがない。わかる。

エレンとアルミンはそのまま←主役だし、まあわかる。

ジャン←は?

*6:ナイスな黒人、オタク・コンベンションなダイナソーギーク、デブなのに脳味噌筋肉な矛盾無能軍人、遺伝子操作のせいで怪物と化す恐竜、サバイバルの中でよりを戻すカップル

*7:ここの原文に出てくる"more teeth"は作中幾度となく登場する。しかし、ラストで何を思ったか今まで出来ていたはずの訳を「歯の数が足りない」っていうウルトラ直訳やってのけた。あまりにも唐突でめっちゃ考えてしまった。が、待てよティラ君の歯の数って、と合点がいく。歯の数は強者の証だ。だからこそ、最後にモサ君がパックンチョなわけだ。

映画『バケモノの子』感想

 ひと月ほど北海道を放浪していた。バイクで。すごいな無職はなんだって出来るぞ。可能性を感じる。

 そんなこんな世間から隔絶されている間に、あの注目作がロードショーされる運びになっていた。アニメーション監督細田守の最新作だ。

 映画は面白かった…………んだけど、何か一つ物足りない。今回は、その今一つをネタバレとか気にしないで考えてみる。

 

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人間界「渋谷」とバケモノ界「渋天街」は、交わることのない二つの世界。ある日、渋谷にいた少年が渋天街のバケモノ・熊徹に出会う。少年は強くなるために渋天街で熊徹の弟子となり、熊徹は少年を九太と命名。ある日、成長して渋谷へ戻った九太は、高校生の楓から新しい世界や価値観を吸収し、生きるべき世界を模索するように。そんな中、両世界を巻き込む事件が起こり……。

http://www.cinematoday.jp/movie/T0019739

 

父と子の物語?

 創作世界から父性が消えてしまったという話を、大学時代よくよく聞かされたのを覚えている。父性と言っても父親的な愛の姿ではなく、それは父と子の対立の物語だ。子供は親の背中を見て育つというが、いずれその背中は子によって乗り越えなければならないハードルだ。そのセオリーは神話の時代から脈々と受け継がれて、創作世界の一つのルールになっていた。最も有名な例がエディプスコンプレックスで知られるオイディプス王の物語で、日本でも志賀直哉の『和解』などいつだって男子の前には父親が立ちはだかり、子はそれを乗り越えんと苦悩する。

 創作界――とくにマンガやアニメ――においてはそんな父性どころか、そもそも父親が不在という物語がしばらく続いていた。細田守作品も例外でなく、『サマーウォーズ』『おおかみこどもの雨と雪』は意図しているのかしていないのかは別として、しっかりと”父親”が不在である。

 では今回はどうか。『バケモノの子』という映画。そこに父親はいるのか。

 問われれば、それはノーだ。やっぱり、あくまでも母性的な作品作りのように思う。そのあり方を否定するわけではない。けれども、この映画の良く言えばさっぱりとしていて、悪く言えば薄っぺらいところは、実はそういう父親不在が原因にあるように思う。

 ただまあ、それがおそらく今の現実を如実に表しているのではないだろうかとも思う。対決すべきは父親ではなく、結局自分自身なのだ。父がいなくとも子は育つ。*1

 けれども、子供は自分と真っ向から向き合い、時に論理に依らない感情論で否定してくれる存在を欲する。それが熊徹の役割なのだ。あくまでも親代わり。その役割は、言ってしまえば父親でなくても出来る。たまたま父親が最も身近なだけで、それは時に教師であり師匠であり先輩である。それが今回はバケモノの師匠熊徹だったのだ。

 熊徹は別に父親たらんとはしない。師匠らしくあるということもない。ただ自分を変えてくれた九太を守ろうとする。それだけだ。それはある種父性愛ではなく、母性的な愛に通ずる。*2

 

ニンゲンかバケモノか?

 今作品はあまりにもストレートというかあけすけというか王道というか、とにかく悩むところがない。伏線は伏線ですという顔をしているし、「まさかそんな展開が」という驚きはほとんどない。

 そして一番あっけないのが、自分を「バケモノの子」呼ばわりするくせにその後は只の人間として暮らしていくという道を選ぶところだ。*3

 ただこれも意外でもなんでもなく、九太が人間世界へ帰還して出会ったヒロインに名乗るときに、ニンゲンとしての名前「蓮」を使ったところからも明らかなのだ。そこで「九太」と即答しなかった時点で、彼の将来はもう決まっていた。一瞬の逡巡のみ、というのも哀しい点だ。その後もヒロインに対して、九太と名乗ることは一度もない。主人公の中でしっかりと線引が出来ているのだ。*4

 ただまあ個人的に、ここが一番のポイントになって欲しかったと思う。どう生きるのかという葛藤。ニンゲンとして生きるのか、バケモノとして生きるのかという苦悩。ここをもっと描写して欲しかった。*5

 その「どう生きていくべきか」をもっと深く考えていくストーリーだったなら、きっとそこに”父親としての熊徹”が登場していただろうと思う。悩める子の前に立ちはだかる父親。その対決の先に、子供は答えを見つけるのだ。*6

 結局、熊徹の言うとおりになる。誰かに答えを求めるな。「意味なんてものは自分で探すんだよ」ということである。

 

まとめ 

 ここに熊徹と九太の対決があったらどうなっていたかと考えずにはいられない。もちろん話は全く別物になっていただろう。*7

 主人公の鏡的存在である一郎彦との対決によって自己と向き合うストーリーも悪くない。悪くないだろうけど…………細田守作品が合わない人は、その爽やかすぎてさっぱりとしすぎているところが合わないのだろうかとも思う。結局彼の作品のどこにも本当の悪人ってやつがいない。冒険活劇には必ずいる理不尽で強大な敵もいない。「細田はまた褒められようとしているな」なんてのは言い過ぎだろうけど、とても優等生だなとは思う。やっぱ綺麗すぎるんだろう。*8

 途中出てきたヒロインも、あれ女の子である必要ないよね。ただ見栄えの問題だけじゃんって感じが盛々した。*9

 もっと泥臭く、もっと足掻いて、というお話を求めるのは間違っているだろうか。でも、そんなワクワクドキドキの英雄譚、冒険活劇が出来るポテンシャルを持った作品だったと思う。

 

 結局明確に批判しきれない豚である。「きらいじゃないんだけど、うーんなんかちょっと足りないよねえ」なんていう微妙なことしか言えないのだ。ゴミカスである。だったら最初からお口をミッフィーにしてなと。

 あんまり批判的な意見もどうかと思うので好きなシーンのことも話しておこう。一番好きなシーンは卵かけご飯の件である。最初は生臭くて食えない突っぱねるのだが、最終的に気持ち悪くなりながら気合でかっ食らうのだ。それを見て嬉しそうに笑う熊徹が印象的であった。記紀の時代から、異界の住人になるためにはその世界の食べ物を口にすることがひとつの儀礼だった。*10あの熊徹の差し出した卵かけごはんを食べたことで、初めて九太は熊徹の弟子になったのだ。

 その後も、一緒に食卓を囲う場面が何度も挿入される。あの食卓が、二人にとっての家庭の象徴なのだろう。だから、二人の喧嘩はいつも食卓で始まるのだ。

 そう考えると引っかかるのはやっぱりタイトルなのかな。あとはメディアの宣伝の仕方。全く新しい親子の物語とか煽っていたような気がするし。”親子”と銘打つほどじゃないでしょ。さっき「食卓が二人の家庭の象徴」なんて言ったものの、そこにあるのは師弟の関係だし、よしんば兄弟くらいのものだ。父と子って感じじゃない。

 とは言っても、最後九太は「いろんな人に育ててもらった」と言う。自分を取り巻く大人を「ダイキライ」と言っていた子供が、大人へと成長した瞬間である。

 この作品は主人公がバケモノになっていく話ではない。バケモノとニンゲンの親子関係の話でもない。九太が、子供の頃に喪失した大事なものをバケモノたちによって埋めてもらい、しゃんとしたニンゲンになるお話なのだ。いろんな人と出会って、最後に自分の意味を自分で見つけていくお話だ。

 

 その点では、彼は十分バケモノの子、熊徹の子だと言える。

*1:母の愛は必要だって『NARUTO』も言っているぞ。子供と一緒にいてあげるっていうのが母の役割なのだ。あのチコ(ケセランパセラン)のように。

*2:最後熊徹は”九太の胸の中の刀”になる。刀というと如何にも男性的だが、”胸の中の刀”っていうとなんか女性的な感じがする。懐剣とかって女性のものだしねえ。

*3:人間が持つ”闇”が、「人間はバケモノ以上にバケモノ的である」というウルトラ解釈もできないことはない気がする。わお、ウルトラ。

*4:その点が「一郎彦」との最大の違いになるわけだ。

*5:結局、ラストの方は人間の中に潜む闇との対決で、バケモノはどっかに行ってしまった。残念ポイントである。

*6:劇中の喧嘩のさらりとしていること梅酒の如し。

*7:青春と感動にステ極振りにはならないだろうな。青春とか感動とか家族愛とかってのを書かないと暗殺でもされちゃうの? って思うくらいステ極振りだよな。

*8:その点で僕は細田守監督作品の中で『おおかみこどもの雨と雪』が一等好きである。これは全く綺麗なだけの作品じゃない。とても泥臭いし理不尽だ。その中でも賢明に生きて、自分の道を切り開いているということを感じる。家族だけじゃなくて、自然と人間の関係っていうのが描かれているからなのかも。

*9:バケモノの子なんだから、九太くんには目をギンギラギンに輝かせてレイプ未遂くらいまで行って欲しかったって思うわけじゃん。

*10:まあ、そんな難しく考えなくとも、「同じ釜の飯を食う」理論である。

Singin' in the Rain.~雨に唄えば~

今週のお題「雨の日が楽しくなる方法」トピック「雨の日が楽しくなる方法」について

 

雨と言葉

 風邪引いたりして体調を崩している間に、いつのまにか列島の南側はお湿りのようで、間もなく――というか現在進行形で――梅雨前線は北上し、一年で最も陰鬱な季節が始まるだろう。

 創作の世界でも雨というのは憂鬱の象徴で、登場人物の心情は空模様に反映される。ただ、僕たちはこの世に止まない雨はなく、晴れない空はないということを知っている。だからこそ、雨を見て溜息を付くと同時に、あの抜けるような青を夢見るのだ。するとどうだか。自然足取りは軽いものになる。それはまるでタップダンスのようではないだろうか。

 よく聞けば、雨というのは音の宝庫だ。様々な音を生み出す。「ざーざー」や「しとしと」といったオノマトペでよくよく表される。「ざーざー」は賑やかで、「しとしと」はしんみりで、それでも「ぴっちゃん」なんてついたら、ちょっと踊りだしたくなるような陽気さを腹の底に隠していそうだ。

 オノマトペだけではない。日本には雨を表現する言葉がたくさんある。言葉の豊かさは、そのまま自然への親しみの深さを表す。雨という言葉をざっと上げれば、時雨、小夜時雨、五月雨、梅雨、菜種梅雨、夕立、氷雨、春雨、天気雨、秋雨、穀雨……エトセトラエトセトラ。

 日本は雨が多いから、その気候が国民性に影響しているのだ、なんて本を以前読んだ。確か和辻哲郎*1だったと思う。じゃあ、日本人は陰鬱な奴が多いのか? いやいや、止まない雨はないのだ。だからこそ、底抜けの明るさに思いを馳せる。そのある種楽天的な気質に近いものが、映画『雨に唄えば』の底流にあると思う。

 

雨に唄えば

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 僕は未だにこれ以上に陽気な、底抜けに明るい雨を見たことがない。*2雨に唄えば』は全編を通して”底抜け感”に溢れているが、この主題歌を歌い踊るシーンは「特に」と言っていいだろう。ジーン・ケリー演じるドンの浮かれポンチっぷりが4分半以上も続く。カメラワークも素晴らしく、俯瞰で舞台を広く見せジーン・ケリーの自由なダンスを流れるような流麗さでカメラに収めている。

 特に見もの、というか聞きものなのが彼のタップダンスだ。軽快な足音に雨音が混ざり、じゃぷじゃぷじゃばじゃばと水たまりをかき乱す。なんと小気味よいリズムだろうか。うっとおしいはずの雨も、彼にかかってはハッピーな日を賑やかしてくれるバックバンドに早変わりする。もちろんバンドのメインは彼なのだが。

 これは前述したが、よくよく空模様には登場人物の心情が反映される。最近見たアニメで毎度雨の降っているシーンがあって、「なんだ季節は梅雨か?」と思って辟易したことがある。チームメイトとの不和、降りしきる雨、波乱の予感、それでも最後は雨は上がり、チームは一層団結してハッピーエンド。心情と背景の関係で言えば鉄板なんだけれど、それを毎度やられるとさすがにゲンナリする。

 一方、『雨に唄えば』での雨の使い方は少し違う。確かにこの後の展開を考えれば少し不穏な空気はあるのだが、この雨の効果としてはあくまでも先ほど述べた通りだ。こんな楽しい雨なら降ってほしい。そう観客に思わせるエンターテイメントだ。この作品は見せ方だけでなく、視聴者との距離感もミュージカルのようである。すぐ目の前で役者が生きているような、そんな印象を視聴者に与える。不朽の名作と言われる理由は、一度見れば語るまでもない。

 

晴思雨唄

 日本には晴耕雨読という言葉があるが、これから梅雨本番を控える今、晴思雨唄だろうか。同じ憂鬱色の空ならば、踊らな損損と言ったところだろう。楽天的に、底抜けの青空を期待して、水たまりをバシャバシャ。晴を思って雨に唄えば、外に出るのも少しは楽しくなる。

 

雨に唄えば 50周年記念版 スペシャル・エディション [DVD]

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*1:具体的に言うと、和辻の言っていることは極東や東南アジア全般の話で、モンスーン型の国民性と呼んでいた。他にも草原型、砂漠型、森林型などがあった。その土地の気候がそこに住む人々の生活様式を決め、それが慣習となり、宗教となる。そうして国民性が生まれるという話だったと思う。

*2:このシーンの雨には牛乳が混ぜてあったらしい。雨を際出せるための演出だそうだ。雨の演出、というと黒澤明を思い出す。黒澤明は雨に墨汁を混ぜたらしい。カラーと白黒。図らずも白黒の対比である。

映画『インターステラー』感想

 近くに新作や准新作、大手シネコンでは上映しないようなマイナー映画を取り扱う映画館があって、たまたまそこで『インターステラ―』を観てきた。たまたま、と言ってもせっかく映画の日だからという気持ちで見に行こうと思ったのであって、全くの偶然ではないのだが。その映画館、キネマ旬報シアター柏という。こじんまりとしていて、とても雰囲気のいい映画館である。

 http://lifememo.jp/wp-content/uploads/2014/11/interstellar-featured.jpg

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近未来、地球規模の食糧難と環境変化によって人類の滅亡のカウントダウンが進んでいた。そんな状況で、あるミッションの遂行者に元エンジニアの男が大抜てきされる。そのミッションとは、宇宙で新たに発見された未開地へ旅立つというものだった。地球に残さねばならない家族と人類滅亡の回避、二つの間で葛藤する男。悩み抜いた果てに、彼は家族に帰還を約束し、前人未到の新天地を目指すことを決意して宇宙船へと乗り込む。

 

 この世界で最も発色の難しい色は黒であるらしい、と教えてくれたのは高校の化学の先生だった。小川直也にそっくりな厳つい風貌に似合わず、白衣の似合う謙虚な大人だったのを覚えている。彼はそんな話をしてから、「だから、僕や君たちの頭に載っている髪の毛の色は、とても貴重なものなんだ。それを、簡単に台無しにしちゃダメだよ」と締め括った。科学者らしく、また教師らしかった。その頃から変わらず、僕の頭は黒いままだ。今でも髪を切るときなんかに、いつも先生の言葉を思い出す。

 宇宙といえば、綺羅びやかな星々。雄大を思わせる銀河。様々な”色”を想像させると思う。しかし、その大部分は黒で、かえってその黒色の背景があるからこそ、私達は様々に輝く星を思い描くことが出来る。冷え冷えしていて、どこまでも虚無だから、星の暖かさを感じるのだ。きっと、数多の宇宙飛行士たちが見た地球も、宇宙の黒があったから美しかったのだろう。実際、あのガガーリン少佐も「空は非常に暗かった。一方、地球は青みがかっていた*1という言葉を残している。

 確か、『2001年宇宙の旅』*2の宇宙空間における光源の扱いに言及していた記事があった気がする。地球上と違って、宇宙にはあちらこちらに光源がないから、ライティングが非常に難しいという話だったと思う。これも闇の描き方だ。SFならではの悩みかもしれない。他の作品ならケレン味や劇画調ってことでなんとでもなるし、逆に闇もその表現のために利用されているだろう。考証というポジションがついている作品は難しい。SFなんて、フィクションって言葉がついているのにリアリティーが求められるのだ。僕なら自分の時間をすべて使っても作れないだろう。*3

 

 さて、話を戻そう。本作はその闇の描き方がとても良かった。精緻な画面作りにその思いを感じた。宇宙の闇は、時に果てしないフロンティアを夢想させ、一方絶対的な孤独を感じさせた。特に、ワームホールブラックホールの描写では、その黒がここぞとばかりに威力を発揮していた。SFが好きなくせに、ブラックホールのことは、言葉のイメージ通りの姿しか頭になかった。だからこそ、あの画には衝撃を受けた。”事象の地平線”と称される姿は、まさに神の座を思わせた。黒い穴ではないのだ。捩じ切られ行き場を失った光が、頭を垂れているようだと思った。

 それは、見果てぬ希望と同時に、行方知らずの船旅の不安を与える光景だった。旧世界の船乗りは、きっとこんな気持ちだったのだろう。世界はかつて、人々にとってそれこそこんな姿に映っていたはずだ。そんな考えを主人公たちに重ねた。考証重ねられたSF描写よりも、親と子の時空を超えた愛の物語よりも、宇宙を旅する船乗りたちの姿が印象的だった。そこにはきっと、どこまでも続く宇宙の黒があったから。明暗を丁寧に描いていたから、観る人にそんな気持ちを与えるのだと僕は思う。闇を描けよクリエイター。それこそ、神話の時代から続く、物語を紡ぐ者の宿命である。

 

 

 

 ところで話は全く変わるけど、主人公の娘役の娘(もちろん子供時代)がめちゃんこ可愛かった。顔というか、仕草とか演技が。泣いているところも、拗ねているところも、喜んでいるところも全部良かった。そればっか見てて、前半の重力の伏線の件とか思考が止まってた。(というか、あれ伏線って言えるのか?)

 この娘、マッケンジー・フォイ*4ちゃんって言うらしい。フォイってなんだよ。最高かよ。

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 はああああああああああああああああああああああああ~~!!!????

 

 最高かよ。父性を感じる。マシュー・マコノヒーになりたい。その場合、宇宙には行かないけどな。人類とかどうでもいいじゃん。滅べよ。砂でも食ってろハゲって思う。アン・ハサウェイも好きだけど。『プラダを着た悪魔』の頃のアン・ハサウェイだったらわからなかったけど。つまりさ、マッケンジー・フォイちゃん最高フォイってこと。宇宙の真理フォイ。マッケンジー・フォイちゃん可愛い。

 

 

 余談ついでに結末部にも触れておく。正直、怒涛の伏線回収!! とかいうどっかの前振りがいけないと思うけど、最後の方は「マジかよ」の連続で逆に笑えた。笑う場面じゃないのにな。でもまあ、結局「親子の愛は時空を超える」から。もうそれで話はおしまい。オールオッケーなのだ。正直、あんな可愛い娘のためだったら、パパは時空だって宇宙空間だって超えちゃうでしょって話。キャストの演技も良かったし、画面作りは申し分なかったし、良い映画だ。

 ただ、最近の映画全般に言えることだけど、やっぱ3時間近くなると長いなって感じる。集中力も限界を迎えてくる。やっぱり1時間半くらいがちょうどいい。人間の集中力って一時間半が限界と聞く。DVDなら一時停止できても、映画館じゃそうはいかない。あとね、下世話な話だけど膀胱も限界だよね。余計集中力が乱れるって話だ。無職の豚は、いつも上映三十分前から何も口にしないというストイックさで挑んでいる。それでも、いつも映画の余韻はトイレで浸ることになる。悲しいかな。感動より排泄が優先なのだ。

 

 なんか本当に下世話な話になってしまった。というわけで、『インターステラー』の感想でした。

*1:地球は青かった」という言葉が先行しているが、原文通りなら少佐は宇宙の黒に注目している。また「地球は青いヴェールをまとった花嫁のようだった」という新聞記事が変化して伝わったという説もあるらしい。科学の粋を集めて送られた人間の言葉にしてはあまりにもロマンチックだ。表現としてはとても好きだけど。

*2:宇宙飛行士デイブと人工知能ハルが登場するSF作品。有名作だけど、ちょっと眠くなるよね。

*3:まあ、物語は一つの例外もなくフィクションであるという話は置いておく。結局、リアルあってこそフィクションなのだ。現実感は土台みたいなもので、フィクションなんてその上にだけ聳えることの許された砂上の楼閣だ。結局土台があまりにも歪なら、うわものは音もなく崩れ去る。

*4:14歳。『トワイライト・サーガ/ブレイキング・ドーンpart2』ではゴールデンラズベリー賞の最低スクリーン・カップル賞に選ばれたらしい。すげぇ賞もあったもんだ。

映画『チャッピー』感想

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チャッピーを観てきた。『第9地区』の監督のオリジナルSF作品で大いに楽しみだった。しかし、公開前に映倫の審査の関係ですったもんだがあったらしいのを耳にして、少し不安を抱きながらも劇場へと足を運んだ。

 たいていこの手の規制が入ると、メリケン映画は去勢されたワンちゃんの如くの変貌を遂げたりして、良いイメージは皆無だ。しかし、それがほとんど全くと言っていいほど気にならず、大いに楽しむことが出来た。

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 あらすじ(ウィキより抜粋)
 未来。ヨハネスブルグの高い犯罪率を減らすため、南アフリカ政府は、兵器メーカーTetravaalから、人工知能を半分取り入れた最先端の攻撃ロボットを購入した。
 同社のヨハネスブルグ工場では、ロボットの設計者、デオン·ウィルソンは、感情を感じたり、意見を持ったりすることができるという人間の知性を模倣した新しい人工知能ソフトウェアを作った。しかし、彼の上司、ミシェルブラッドリーは、そのロボットを試作することを許可しなかった。 デオンは、どうしてもあきらめられず、廃棄される寸前だったロボットとロボットのソフトウエアをアップデートするために必要なドライバーとともに家へ持ち帰ろうとした。だが、帰宅途中、強盗を手伝わせるためプログラムされたロボットを欲しがっている、ニンジャ、ヨランディ、アメリカ(あだ名)の暴力団グループに、デオンは誘拐されてしまう。銃で脅され、デオンは、壊れたロボットに新しいソフトウエアをインストールする。
 ロボットの知能はまだ何も情報を持っておらず、見た目は攻撃ロボット、でも中身は純真無垢でまるで子供のようである。デオンは、ロボット「チャッピー」を調教するために、職場に戻り、また、3人のもとへ戻ってくる。その折、アップデートのためのドライバーが持ち去られたことに気付いた同僚のヴィンセントは、デオンの後をつけ、チャッピーの存在を知る。

 

 まず、とにかくテンポが良い。グルーブ感溢れるディスコミュージック*1で、スラング調の会話が全体のノリを決めている。アクションもキビキビしていて、ユーモアとのメリハリもある。120分の中で”たるい部分”は皆無で、カメラワーク、カット割り、人物の会話や音楽も大いにそれを意識しているだろうと感じられた。

 なにより役者が揃っている。俳優に明るくない豚にもわかる面子*2で、全員の演技が光り、それもあって個々のキャラが非常に立っていた。

 一方で、古くから続く「問題」をしっかりと描いている。それは人間の定義であり、生命の定義であり、魂の問題である。本編では「意識.dat」と名付けられているものだ。 アンドロイド物において、必ずロボットは人間の生命倫理の諸問題を映し出す鏡として扱われる。アシモフやディックがそうしてきたようにだ。それは何もアンドロイドに限らず、全ての物語に共通することだが。人間の「私とはなにか?」という永遠のテーマである。その辺りが、かなりショッキングに描かれていたように思う。

(近未来におけるロボットや人工知能の孕む危険性よりは、こちらの方を強く感じたのでそれについて書きなぐっていきたい。)

 

 特に感じ入ったのが、チャッピーの表情だ。表情と言っても、小さな液晶画面に表れているものではなく、その立ち居振る舞いや言葉に表れている感情のことだ。序盤、”産まれたてのチャッピー”はアンドロイドという見た目の不自然さがありながら、まさしく”人間の赤ん坊”だった。それは玩具一つを手に取る動作、安心して自分を任せられる”親”を”本能的に”見極める姿、立ち上がり歩き始める過程*3、ミルクをこぼして驚くところやヒーローアニメのモノマネをして喜ぶ”表情”からひしひしと伝わってきた。よく動く耳(アンテナ)などの頭部パーツも、可愛らしさを感じさせる。そういう感情の所作を丁寧に描いているからこそ、視聴者は、確かにチャッピーの成長の過程を感じることができるのだと思う。

 また、ヨランディという「ママ」との交流も、この豊かな表情に繋がっているだろう。彼女の母性と、対照的なニンジャの父性がチャッピーという”成長段階の子ども”を、よりリアルな存在にしているのだ。人間臭すぎる彼らから生き方を学ぶところも、その一役を買っていると言っていいいだろう。母の愛情を受け、父に怯えながら家族の絆を求める姿は、正に”人間臭すぎる”。

 例えば、ここで思い出すのが『イヴの時間』だ。いわゆるこのヒューマノイドは、その”人間らしさ”の一つが顔に表れる表情に依るところが大きかった。 『イヴの時間』では、泣いたり笑ったり怒ったり、そう「まるで人間のような」ロボットが人間らしく振る舞う姿が描かれた。ただまあ、この世界で描かれるヒューマノイドは、リング*4という特殊性以外で、一見しただけでは人間なのかロボットなのか見抜けない存在なのだが。他にも、『アイ、ロボット』でも、顔に表れる表情が丁寧に描かれていた。こちらは動作がまるっきりロボットで、そのくせ人間らしい表情をするのだ。*5アンドロイドは電気羊の夢を見るか』は最も顕著な例で、表情に収まらず肉体性にまで「人間らしさ」が及ぶ。この作品に出てくるのは、肌を重ねてもそれが人間なのかわからないほどのロボットだ。だからこそ、主人公の疑念、「もしかして自分もロボットなのでは?」につながっていくのだが。

 これらはどれも、ロボットたちの「人間らしさ」が描かれるからこそ、「人間とはなにか?」「私とはなにか?」という問いが際立っていく。その中でもチャッピーは、人間と同等の精神を持ちながら相反する自身の体――本編では『黒い羊』が引き合いに出される。電気羊の件もあるし、この引用は相当に意図的だろう――に苦しみ、葛藤し成長する。生を希求する姿の痛ましさが、スクリーンからビリビリと伝わってくる。そこにあるのはまさしく人間の成長の物語で、これはアンドロイドの登場するSF作品でありながら、社会から爪弾きにされる不適合者たちのヒューマンストーリーとしても成立しているのだ。

 

 創造主の命の危機に、チャッピーは彼の「意識」をロボットに転送することを考えつく。*6果してそれは無事成功して、”デオンの意識はロボットに移った”。それはデータ化された神経信号に過ぎないはずなのだが、チャッピーという存在のおかげで、「魂」の存在を視聴者に錯覚させる。しかし、この発想は一見ロマンチックでも、完全にロボット的で科学者的なものだ。結果をあっさりと受け入れるデオンの姿は普通ではない。「そこに魂はあるのか?」と考えた時、ロボット側ではない人間は、この結果を否定するだろう。ヨランディは言った。「人は死んで、次の場所に行く」と。つまり、人間は生のみに依らず、その死があって成立する存在なのだ。その点では、本編はしっかりとチャッピーの生、そして死を描いている。生に関しては言わずもがな。そして、死も高尚なものとしてでなく、リアルの所に落とし込まれていて視聴者を納得させる。暴力によって生命を脅かされる経験。バッテリーという寿命。闘犬に見る生きるか死ぬかの問題。最愛のママの死。しかし、結局チャッピーの結論は死の超越、肉体の超越だった。そして、同じものを家族に対しても求めたのだった。

 ラスト。ヨランディの意識をロボットへインストールするところが描写される。その前のカットでは、ニンジャがヨランディの写真や遺品を燃やすシーンがある。その中で、ニンジャはヨランディの意識データが入ったUSBを発見し、そしてそれを燃やさなかった。しかし、そこにあるのは死の超越などという考えではないはずだ。それは人間故の純粋な過ちであると思う。彼は暴力的なストリートギャングとして描かれているが、確かに人間存在で*7明らかにデオンやチャッピーとは違う。チャッピーはヨランディの亡骸に語りかける。「次の場所に行くのではなく、新しい体に行くのだ」と。しかし、きっと彼女はその考えを、新しい自分の存在を受け入れられないだろう。含みを持たせつつ、最後アンドロイドに”意識”が移ったヨランディが目を見開くところで、映画は終わる。これまでの家族として彼らを見て、そしてその中にある決定的な違いが描かれているからこそ、どうしても彼女が喜ぶ姿は想像できない。

 だからこそ、改めてその語られなかった空白が問うのだ。 「人間とはなにか?」「私とはなにか?」そして 「そこに魂はあるのか?」と。

 

 とにかく大満足の映画で、アクション物とかロボット物とかを観ると心臓発作を起こしちゃうっていう人以外には是非進めたい作品である。最後の最後まで、フィクションであるのに生々しい物語が活写される名作だ。映像の迫力、音、そして細かなチャッピーの”表情に”注目するためにも、是非とも劇場に足を運ぶことをオススメしたい。

*1:名称があってるかわからん。単純にレゲェとかHIPHOPでいいのかも。

*2:スラムドッグ$ミリオネアの主人公、珍しく胸毛とギャランドゥを見せないヒュー・ジャックマン、あとシガニー・ウィーバーなど。

*3:チンピラ歩きを覚えて嬉しそうに実践するところは微笑ましかった。

*4:本編中のヒューマノイドの頭上に表示される識別標。法律で定められているという設定で、このリングが物語のきっかけになっていく。

*5:そういえば、関係ないけど 『イヴの時間』 はサミーで 『アイ、ロボット』 はサニーだ。

*6:かねてから、自分の「意識.dat」を別のボディに移すつもりだった。

*7:欲望の肯定と実践、仲間への愛情、十字を切る仕草、ヨランディとチャッピーの会話に微笑む回想シーン。